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 2002年日韓FIFAワールドカップで、「カメルーン」チームがキャンプ地に選んだのは、人口約1300人の小さな村大分県「中津江村」でした。チームの事情で「中津江村」到着が5日間も遅れたにもかかわらず、村人たちは暖かくカメルーンチームを迎え入れました。世界最大のスポーツイベントでのこのワンシーンは、世界中に配信され、世界中から賞賛を声が村人たちに送られました。この年の「流行語大賞」が「ワールドカップ(中津江村)」になったほどでした。DSCN0044_1.JPG
 2002年5月19日村人とカメルーンチームとの交流が始める半年前、「カメルーンチーム」との契約の済ませ、中津江村はカメルーンチームを迎え入れる準備が始まっていました。しかし、多くの問題を抱えていました。その中でも最大の問題が、村人だけでなく多くの日本人がカメルーンについて知らなかったことでした。どこにあるのか?どんな国なのか?どんな人たちが住んでいるのか?何を食べているのか?・・・まだ、インターネットが十分普及しておらず、村人にとっては未知の国だったのでした。

DSCN0750.JPG この多く問いに答えてくれた人か現れました。彼の名が「KETCH」、通称「ケチャ」でした。彼は大分にある「アジア太平洋大学」の留学生でした。もちろん大分県には唯一のカメルーン人であり、日本中でも探してもほとんど見つけることができませんでした。
中津江村はケチャを招き、 彼からカメルーンチームを迎え得るための多く知識を教わりました。カメルーンの国、国歌、環境、教育、食事、民族、宗教・・・。村人の多くが初めて接する「アフリカ人」であり「黒人」でした。初めは彼を遠くからみていた村人たちも、彼の人柄、おおらかさ、優しさを知ると、まるで以前から知る隣人のように迎え入れました。ケチャも、老人会、婦人会、小中学校、保育園などに気軽に出向き、村祭りまで呼ばれるようになりました。200206081003021 2.jpg
彼が村にきたことで、2002年カメルーンチームを村に迎え入れる準備が急ピッチで進みました。

 当初の予定では、カメルーンチームは5月19日に中津江村にくることになっていました。しかし、来なかったのです。次の日もまたその次の日も村には到着しません。日本中、世界中のメディアがそのことを取り上げ、騒ぎ立てました。「もう中津江村にはカメルーンチームは行かない」とまで書き立てるマスコミもいました。でも、村人たちは静かにカメルーンチームの到着を待っていました。そして、5日後の5月24日午前3時過ぎ、2002年ワールドカップ出場権を一番早くが勝ち取ったカメルーンチームが出場国で一番遅く開催地日本、中津江村に到着したのです。高齢者が多い村人にとって午前3時はいつも深い眠りの中です。その深夜多くの村人が、約束を守らないために世界中か非難を浴びていた「カメルーンチーム」を笑顔と優しさで迎えたのです。ワールドカップという厳しい勝負の大会での心温まる逸話となり、世界中の人が「日本人」、「中津江村民」をたたえました。
 カメルーンチームも村人たちの暖かい歓迎に応え、厳しい日程の中、最大限のサービスで村人たちと交流をしてくれました。そしてキャンプも無事終わりました。
200206081003266.jpgこの話の主役は「村人」と「カメルーンチーム」ですが、それを陰で支えた立役者が「ケチャ」でした。本来人見知りをする村人があたかも古い友人たちのようにカメルーンチームを迎えいれ優しく接することができたのは、村人にとって「カメルーンチーム=ケチャ」だったのです。村人とカメルーンとの交流は、半年前から、ケチャが中津江村に来たときから始まっていたのでした。

 カメルーンチームが去った後でも、ケチャは村に訪れていました。学費の足しに鯛生スポーツセンターでアルバイトをしていたある雪の降る日、センター内に植樹をする仕事が回ってきました。雪の降る中、カメルーンから持ってきていた服を何枚も着込んではいたものの南国育ち、寒さが身にしみ、この仕事をぼやいて、私に言いました。「どうして中津江村にはこんなに木があるのに、こんな寒い日に木を植えければならないんだ!!」と・・・・。

 それから2年後、卒業間近のある日、ケチャは交通事故で亡くなりました。わずか26年の短い人生を終えたのです。日本に来て一度もカメルーンに帰らないまま。

 まるで、彼は「中津江村」と「カメルーンチーム」の交流の為、「ワールドカップ」を成功に導くために日本に来たみたいでした。しかし、月日が経つと誰もが少しづつ彼の活躍を忘れていきました。

 でも、中津江村に彼の人生の足跡が一つだけ残っていました。そうです、彼が雪の日に文句を言って渋々植えた木々が細々と残っていたのです。荒れた土地に植えられていたため、あまり大きくなっておらず、外から見ても「木」があるかわからない状態でした。

 ここから私たちの活動が始まりました。下刈してケチャの植えた木を「森」に育てていながら、、彼が中津江村に残したワールドカップでの功績と足跡を大切に伝え、彼が好きだったサッカーをベースにした活動すること、サッカーを愛する世界中の子供たちが安心してプレーできる環境づくりのために、小さな力でもやれるところからやっていこうと集まった仲間たちです。